ログラインにはなぜアイロニーが必要か

前回の続きです。またラカン的な感じで読み解いていくつもり。
さて、前回(敢えて)深く立ち入らなかった幻想(ファンタスム)の話。

幻想とは、幻覚や妄想の類ではなく、外的事実に基づかない記憶や体験とかのことだ。(もともとフロイト用語)
むしろ幻想は我々の日常と共にある。
われわれの日常は世界にファンタスムのヴェールを掛けてそのなかで生きている。われわれはお話のなかで生きているといってもよいだろう。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle版 位置4666
幻想の身近なものは恋愛、大きなものは宗教。もちろん事業体や常識、物語だって幻想だ。
なんで幻想だけ取り上げる必要があるかと言えば、この記事のカテゴリが「物語の設計」だからだ。
ストーリーテラーはみんな騙ることと語ることの間でもがいている。
物語が騙りでなく物語であるためには、何が必要か。結論からいうと「矛盾」だと思われる。
これは論理矛盾のことではなく、逆のものが同時に表現されているということだ。
良いログラインにまず必要なのは、皮肉だ。
ブレイク・スナイダー 『SAVE THE CATの法則』 (フィルムアート社, 2010)。Kindle版 位置No.369
皮肉とは、ある表現に、表面上の意味とは逆の意味を込めることをいう。
ログライン(ストーリーの内容を1行にまとめたもの)のような短い文章に物語の矛盾点を集約させようとすると、必然的にそうなるのだろう。
(ところで)私、物語が普通に読めてないかもしれない説
例えば自閉症の人はファンタスムをうまく構築することができなかったので、小説には興味を示さない。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) (Kindle版 位置No.4704)
という記述は興味深い。なぜ興味深いかといえば私が広汎性発達障害の診断を受けているからだ。[1]
上で言っているのはおそらく古典的自閉症のことなので、少し隔たりはあるのだが、いまはみんな「自閉スペクトラム症(ASD)」という名で括られている。
たとえば、こういう動画テストがある。

動画のネタバレなので折り畳み
その「物語」が見えることは見えるのだが、「作者はおそらくこう読ませたいのではないか?」くらいの解像度でしか捉えることができない。
動画の上に脳内トレーシングペーパーを引いて、丸と三角がグルグル回っているところの上に「彼らは喜んでいる?」などと書いたり消したりしながら必死で話に追いつこうとしている。
同時に2本の動画を見ているようで、正直、疲れる。
つまり、あなたには(おそらく)見えていて私にはよく見えないものの話を私は今からするわけだが、ご容赦いただけると嬉しい。
ファンタスムの功
幻想という存在保証
(S̸⋄a) ← d
前回、主体(S)は象徴界(意味とつながりの世界)の上では存在が欠けている、という話をした。
幻想とは、主体が受動的に被るこの脱落をお話として逆転させ、主体の能動的行為の結果であるかのように見せかけることで、主体が自分自身の存在を保証しようとする手段である。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle版 位置No.1535
欲望 (d) が「問い」なら、幻想はそれに対する「答え」である。幻想は世界の穴をとりあえず塞いでくれる。
たとえば会社員は、会社という幻想があることによって、人間関係の繋がりを得、社会に貢献している感じを得る。それで、生きている実感を得るわけだ。
概説
前置きが長くなってしまった。さあ、『モブサイコ100』のもう一人の主人公と言える霊幻新隆のサブプロットの話をしよう[2]。
霊幻のサブプロットの概要図[3]。
どう見る? 私は律のサブプロットと概ね裏表の関係にあるとみる。
律のサブプロットが存在保証の喪失(大掃除編)から動き出すとすれば、霊幻のサブプロットは存在保証の獲得から動き出す(それは作中の時間軸より3年ほど前のことになる)。それは彼の個人事業体である「霊とか相談所」の拡大と並行する。
そこからしばらくは、(若干のほころびを見せながらも)霊幻はモブくんに対し社会のルールを教えたり相談に乗ったりして存在保証を与え続けるが、同時に霊幻はモブくんがいなくなると困る、というバランスの上に話が進むことになる。
(第七支部編は?と思うかもしれないが、あそこでシーンを決定づけていたのは霊幻ではなくモブくんである。霊幻は逃げろと言ったけどモブくんも律もテルもその場からは逃げていないのがその証拠だ。)
ホワイティ編で存在保証はいったん転倒し、再生する。おそらくこれがミッドポイントにあたる。
神樹編で芹沢さんが入ったあたりから話は着陸態勢に入り始める。モブくんは自分の問題を解決するために霊幻への相談を必要としなくなる。
100話はこの存在保証をちゃんと終わらせるための苦闘である。
契機事件
73話の回想、霊幻はどこかで見たような理由で[4]会社という幻想を抜け出して、詐術に手を染めた。彼はずっと客に絵空を騙ってきたわけだが、彼もまた存在保証を欠いたままだった[5]。
「いい奴になれ。」
ONE 『モブサイコ100(9)』 (小学館, 2015)。Kobo版 p.145
というところまでは騙りだった。
ところがモブくんが(霊幻の湯呑を助けるために)本当に超能力を使って見せたことで絵空は絵空でなくなり、さっき騙られた言葉は真実味を帯びる。霊幻は騙りではなく語ることを許されたわけだ。
いわばそこから始まる物語のスタート地点がこの回想であり、霊幻にとっての契機事件ということになるだろう。
これはモブくんに対する存在保証であると同時に霊幻自身への存在保証になる。
(語り手は第一義的には自分を救うために物語を紡ぐものだ。それ自体は悪いことじゃない)
意識してのことだか知らないが、彼はモブくんの師匠として、大人として、それに相応しい自分のペルソナを作っていく。
人は物語の矛盾にハマる
ところでなぜ人は物語にハマったりするのか。
幻想には必ず一つの矛盾した要素が見られ、そこに主体が位置される。これは一つの同一化ともいえよう。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle版 位置No.3739
主体は欠落しているから、同じく欠落しているものに同一化したがる。幻想には矛盾点つまり穴があって、その穴に読み手は「ハマる」わけだ。
その矛盾点が対象a、ということらしい。[6]
ある事柄が偽ならば騙りである。真ならば語る必要がないだろう。
つまり、真でも偽でもありうるものは語られる。片面的なものは嘘くさい。
敵が強いお話は面白い。なぜ?
テーゼとアンチテーゼの対立の激しさは矛盾の深さであり、深いほどちゃんとハマれるからだ。
物語の苦い部分
矛盾というのは甘いところがあれば苦いところもあるということである。
ひるがえって、『モブサイコ100』というストーリー自体は何の矛盾を持っていたのか。
推察するに、多くの読者にとっては
- 「何者でもない者に対して世界は優しくない(苦い部分)」のに
- 「地味なモブくんに対して周囲は優しい(甘い部分)」
ということらしい。 (らしい、というのは、いろんなレビューなどを基にそう推測してみたけれど、私自身には分からないからである[7]。)
で、上に書いたようなことは霊幻がモブくんに提供してきた物語の矛盾でもある。
モブくんは最上編に至るまでほとんどその甘い部分だけ(主に霊幻によって)提供されてきた。
最上さんの精神世界の中、いわば劇中劇の形式で、モブくんは苦い部分を支払わされたわけだ。
ところで「いい奴になれ」から始まる一連の物語は、モブくんだけのためにあるわけではなかった。
霊幻さんも自分自身その物語を共有していて、モブくんに優しくしてもらっていたのだったね。
遅かれ早かれ霊幻にもそのツケが回ってくる。
いわばモブくんが最上編で立て替え払いした「苦い部分」の請求書が、ホワイティ編にあたるのだろう。
最上さんが(半年も頑張った割には)数個の反例でエクボに論破されてしまったのは、(逆に)苦い部分しか言ってないからだと思うが、
モブくんも同様に反例でもって師匠を論破して、幻想の破れ目から出て行ってしまう。
リスタート
物語において、苦い部分と甘い部分のどちらを先に出すか……もちろん甘い部分を先にお出ししないと読者が逃げてしまう。
しかし、物語が真実味を持つためには、いずれ苦い部分も投入しなければならない。
読者が甘い部分を喜んでくれているなら猶更、苦い部分を書くことに躊躇いがあるだろう。
でも安心してほしい。そんなことで幻想は死なない。
さて、答えがなくなったから答えを探して、霊幻は何者かになろうとするわけだが、そんな巧い話がその辺に転がっているはずがない。
始まりを思い出してはじめて自分が例の物語を享有していたことを悟る。
本人はホワイティ編の最後でその話をやめてしまう覚悟さえあったようだが、モブくんは霊幻のことを「いい奴」だと言った。物語の継続希望だろう。
ファンタスムの罪
仮初め
しかし幻想はしょせん仮の答えにすぎない。
治りもしない世界の瑕に貼る絆創膏みたいなもの、
風邪を引いたとき風邪薬を飲んで一時的に熱が下がっても、
免疫を高めないとまた風邪を引くようなものだ。
存在保証でありながら、まやかされて本質を見失うリスクをも持っている。
なまじ自分の言ったことが理解され、共感されれば、それに味を占めてしまい、症状が改善されないまま、いつまでも同じような話をし続けるでしょう。それでは人生の転機など訪れません。
片岡一竹 『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』 (誠信書房, 2017) p.36
や、私も本当にそう思う。誰かに悩みを相談することでその悩みがホントの意味で解決した、という思い出が私には一つもない[8]。
霊幻新隆の罪とは何だったのか
で、なぜ霊幻さんは100話でモブくんに泣いて謝らねばならなかったか、彼の罪とは何だったのか、という話。
罪とは(都市伝説編で見られるような)各種の労働法規違反のことではない[9]。エクボは「拘束時間が長い」(7巻58話 Kobo版 p.125)、「土日が潰れた」(同巻同話 Kobo版 p.132)などと指摘しているが、本人はこれらの指摘に対しノーダメージだからである。
前回、罪悪感とは「欲望の上で譲る」ことから来ると言った。 じゃあ霊幻は何を欲望していたのか。何を妥協したのか。
彼がビジネスを志向していることは間違いないが、ではそのビジネスが志向していたのは何か。
カネではないことは明らかだ。そもそも最低賃金も払えない(と思われる)ほど経営が逼迫しているのは、(53話の森羅さんが示唆する通り)単価が安すぎるからだと思われる。
なぜそんな単価設定にしているのか。おそらく顧客が支払える額を優先しているのだろう。
つまり彼の本当の欲望、ビジネスを通じて得たかったものは、他人の悩みを解決することではないのか?
(その在り方、その欲望が間違いではないのは、101話で集まった人たちが「仕事」や「社会」の枠外で問題解決された人たちだということから裏付けられる[10]。)
つまり……霊幻の罪とは、最初にモブくんに会ったとき、
安易に答えを与えてしまったために自分がまやかされて悩みを本当に解決するチャンスを見失ったことでは?
見失ったまま自分への存在保証を優先してしまったことでは?
100話で霊幻さんが流した涙は、自分の在り方とそれに背いたことに、正面から向き合った結果じゃないだろうか?
ファンタスムの乗り換え
ところで、幻想は乗り換え可能である。芹沢さんが「爪」の幻想を脱して「霊とか相談所」にやってきたように。
精神分析では、それぞれの分析主体が自らのファンタスムと向き合い、もっと苦しまなくて済むように、新たなファンタスムを再構築することが促されます。これをファンタスムの横断と言います。
片岡一竹 『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』 (誠信書房, 2017) p.175
当然だが乗り換えるにはいったん降りないといけない。
それは一つの話を終わらせるということである。
呪いを解く
「いい奴になれ」という言葉はモブくんにとっては存在保証だ。
でも、どうあがいても[11]「いい奴」になれない???%くんにとっては存在否定になる。
だから霊幻は自分でその話を終わらせ、呪いを解かねばならなかったのであろう。
この話は霊幻が「力」を持っていることが暗黙の前提だったが、そうでないことを明かす。
前提を崩せば話は終いだ。論理的に偽で確定するから。
自分にとっても存在保証であったものを壊すのは、それなりの勇気が要ることだ。
でもそこで終わらない。まだ続きがある。
語る行為自体に意味がある
前回、???%くんがモブくんのサントーム、つまり「誰とも繋がらない部分」を象徴するのではないかという話をした。
誰とも繋がらないのが成立するためには、他者の存在に依存しないことが必要という話だった。
「二面性なんて誰にでもある。」
ONE 『モブサイコ100 (16)』 (小学館, 2018)。 Kobo版 p.212
という全称命題は、二面性=隠された部分があること、つまり「誰とも繋がらない部分」が存在することを言うが、これ自体は???%くんの存在を誰かに依存させるものではない[12]。
そして、真偽はともかく命題が立てられたこと自体が???%くんの存在を「誰にでも」の中に(暗黙の前提として)含める。つまり「誰とも繋がらない部分」を持った茂夫くんが社会の中にあることを認めることになる。
つまり、語るという行為自体が存在保証になるわけだ。
100話の???%くんは霊幻にやたら冷たいが、彼がモブくんの「力」だというなら、なぜ第七支部で「力」を貸してくれたのか[13]。
(上述のとおり主要人物は誰も逃げてないので)語られる内容は真とは言えないが、
語る行為に真があったからではないだろうか?
患者が苦しむ症状は患者自身の無意識において認められないままに享楽を追求するS1、もしくはトラウマである。それを患者が自分のものとして自らの人生を生きるための手段とすることができれば、その人は自分自身の本質的な部分を満足させて生きていけるはずだからである。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle版 位置No.4808
そりゃ、無理をして人に合わせるより、人と繋がらない部分を認められた方が生きやすいよね。
あとは本人が飲むか飲まないか、それだけだ。
たぶん、もうちょっとだけ、続く。
まとめ:物語の矛盾も終わりも恐れなくていい
なぜ絆創膏を剥がしたくないのか。
どうしてこの世に風邪薬なんてものがあるのか。
解決しないと分かっているのに相談したくなるのはなぜなのか。
それは、一時的にでも救いが必要で、
相談に乗ってくれようとすること自体が嬉しいからだ。
あなたの読者は「あなたが書いてくれること」が嬉しくてあなたの話を読んでいる。
物語の矛盾も、終わりも、書き手はそんなに恐れなくて大丈夫ということだろう。多分ね。
この記事に出てきた本
- ONE 『モブサイコ100 (7)』 (小学館, 2014)
- ONE 『モブサイコ100 (9)』 (小学館, 2015)
- ONE 『モブサイコ100 (16)』 (小学館, 2018)
- ブレイク・スナイダー 『SAVE THE CATの法則』 (フィルムアート社, 2010)
- 向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016)
- 片岡一竹 『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』 (誠信書房, 2017)
- ↑これがたぶんいま日本で一番分かりやすいラカン入門書だと思います
脚注
- 小説は読むけど確かに他のものを読むよりは体力使っているかもしれない[↩]
- もう一つ、こっそりご容赦いただきたいが、この人がどうしてここまで人気があるのかも私にはあまりよくわからないのだ(世界に置いて行かれたような感じがして悲しい)。[↩]
- ホントに「だいたい」なので細かいところは気にしないでいただきたい。。。[↩]
- ここで「なぜ」と問われた霊幻と、27話で「なぜ」と問われた律とを見比べてみよう。「なんとなく」「とりあえず」などと言語化できないのは無意識の欲求だからではないだろうか。ちなみに話数を足すと100になるが、多分関係ないだろう。[↩]
- タバコはもちろん口唇欲求から死の欲動に繋がっている[↩]
- 幻想のマテームにある◇はもともと「<」と「>」の不等号を組み合わせた形で、その形自体が矛盾を表している。[↩]
- 私には「何者か」と「何者でもない」の区別がつかないのだろう[↩]
- 悲しいことだ[↩]
- 労基法60条2項、同法61条5項、最賃法4条1項あたりに違反している可能性があり、おそらく一番アウトに近いのは小学生を雇用したことである(73話:労基法56条1項)。もっとも、(日本のような形はしているが)舞台が日本だとは明言されていないので、日本の法規を適用すること自体がナンセンスかもしれない。[↩]
- あの場に顧客がいないのはもちろん、元「爪」も芹沢さん以外来てないのはそういうことだろう[↩]
- むしろモブくんがいい奴になろうとすればするほど???%さんはそこから遠ざかる気がする[↩]
- 流れ的には自分を根拠にしているのだが、明示的に論理が繋がっているわけではない[↩]
- ツンデレか? いや、100話の???%くんは本当に冷たいのでツンデレではない。[↩]



