
前回、いわゆるハリウッド式脚本術に乗っかって、主人公であるモブくんのメインプロットとサブプロットの話をした。
脇キャラも自分の人生の主人公なのだから、彼自身のプロットを持っている。『モブサイコ100』の第二の主人公と言えば霊幻なのだが、説明の都合上、律のサブプロットについて先に分析させてほしい。
ところで律のサブプロットを見てみても、明確なシャドウ(主張が対立する人物)などを想定するのは難しい。
というか本人が自分の欲望を掴みかねて迷走しているのがかなり難解なポイントだ。[1]
私は、これは使うべきフレームワークが違うのではないかと思って、「ハリウッド式」と題のついた本を全部閉じ、本屋に行った。
そうだ、ラカン的な観点から読んでみよう
なぜならラカンの理論では「自分は何を欲しているか」という問いが「自分とはなにか」という問いと一致しているのが特徴だからだ。
色んな創作本に「主人公には欠落を作れ」と書いてある。主人公が主人公であるにはどうしても「欠落」に目を向けないといけない理由も、ラカンを読めば納得できると思う。
しかしラカンもかなり難解なので、できるだけ平たく書いてはいるがちょっと足りないのは許してほしい。[2]
難解には難解をぶつけるんだよぉ!
概説
ラカンのRSIの簡単な説明
話の前提だからラカンの理論を簡単に説明しておく。[3]
ジャック・ラカン(1901-1981)はフランスの精神医学者で、師の自殺をきっかけに精神分析の世界に飛び込んだ。彼は無意識が言語のような構造を持っていると考え(なので構造主義という)、それをベースに(難解な)理論を構築した。
彼は世界を3つの側面から捉える。順番は前後するけど3つ合わせてRSIだ。
- 象徴界:「意味」と「つながり」の世界(我々が普段生きている世界)[4]
- 想像界:「イメージ」の世界
- 現実界:意味もイメージも届かない世界
我々は現実界で生まれて、ヒトとしてヒトとつながる象徴界に来たわけだけど、現実界にいろんなものを置いてきたようだ。
なお、ここから一応は「欲望のグラフ」を辿っていきたいが、諸事情でここに載せられるようなグラフが無いので[5]各自「欲望のグラフ ラカン」などでおググりいただきたい。
サブプロットの全体像
モブくんは過去に意図せずに超能力で律に重いケガを負わせたことがあって、それが双方のトラウマになっている。
律のサブプロットのゴールは、平たく言えば、この事故を克服することである。
無責ってなんなのさ
ところで「例の事故」について、律は誰も責めていない。モブくんも、自分も、ましてや不良たちをも責めていない。???%には「嫌いだ」とまでは言うけれど、責任を取らせようということではなさそうだ。
フラストレーションを受けたとき、人の反応は3つに分かれる。自分を責める自責、相手を責める他責、誰も責めない無責。[6]
ところで無を責めるとは一体どういうことなのか。
~大掃除編
大掃除編までの律は兄のような超能力を非常に欲しがっている。
超能力を持っていないことを自分の欠落として捉えているわけだ。
しかし16話モブくんの回想と???%に怯える律を見た読者は疑問に思うだろう。
自分を殺しかけたこの「力」を、なんで律はここまで必死に欲しがっているのか、と。
だとすれば欲望について定義しなくてはならない。
要請と欲求のあいだ
A
人が……主体 (Sujet)が、「つながりの世界」である象徴界にやってきたとき、母親でも社会でも(それこそ兄でも)なんでもいいが、とにかく主体に話しかけ、主体を表す言葉を与えてくれる人がいる。これをラカンは「大文字の他者」とかAとか言う。日本語に大文字はないから〈他者〉と書いておこう。
〈他者〉は主体に対して色んなことを要求する。「ミルクを飲め」「寝ろ」「良い子でいてくれ」……
d
しかし主体は遅かれ早かれ、〈他者〉が言葉で欲しいと言っていること(=要請 demande)と、現実に欲しがっていること(=欲求 besoin)の間に差があることに気付く(要請は象徴界にあるけれど、欲求は言語化されていなくて現実界にあるからだ)。
これは主体にとって困ったことだ。自分が〈他者〉の欲求を満たせないなら、自分がここにいる意味はなんなのか。
なので、主体はなんとかしてその差を埋めようとする。
ラカンはこの要請と欲求の差を埋めようとすることを「欲望 (desir)」といった。
物語を動かすのはいつだって主人公(か誰か)の欲望であり、それは差を埋めようとする行為である。
物語の世界も現実の世界と変わらない。客観的な必然と登場人物の見こみが齟齬をきたすと、創作上の現実に突然ギャップが生じる。このギャップは主観と客観が衝突する場所にある。それは期待と結果の差異であり、アクションを起こす前に感じていた世界と、アクションを起こして発見した真実との差異でもある。
ギャップが口をあけたとたん、意志が強く有能な主人公は、最低限の無難な方法では望むものが手にはいらないと気づく。気を引き締め、このギャップを跳び越えて第二のアクションを起こさなくてはならない。この第二のアクションは、登場人物が最初には起こそうとしなかったものだ。
ロバート・マッキー 『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』 (フィルムアート社, 2018)。 Kindle版 位置: 2,823
要請と欲求の差はまた、テクストとサブテクストの関係に似ている。俳優の台詞と、内的な欲求の間に差があるから、観客は差を埋めようとして物語の続きを見たがるのだろう。
シーンにはかならずサブテクスト、つまりテクストと対をなすか矛盾する内的要素がある。俳優はこれを踏まえつつ、いくつもの層を重ねて人物像を作り出すので、観客はテクストを見透かして、俳優の目つきや声やふるまいの裏で揺れ動く真実を感じることができる。
ロバート・マッキー 『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』 (フィルムアート社, 2018)。 Kindle版 位置: 4772
自分の正体はどこにあるのか
S̸
しかしどうしても埋めようのない最大の差というのがあって、主体は象徴界の上では最初から存在欠如しているということだ(差というか孔といっていい)。
それが劇中で律に突き付けられるのは23話。生徒会長の神室さんが卑劣な手段で不良を排除しようとしているので、要請と欲求の食い違いを察した律は[7]、普段の神室さんのエリート志向を引き合いに出してやんわり非難する[8]。しかし神室さんはこう言う。
「そんなものは他人にパッケージングされた…」「架空の自分に過ぎない。」「キミも気付いているんだろ?」
「周りからの評価は自分の正体には向いていない事に。」
ONE 『モブサイコ100(3)』 (小学館, 2013) Kobo版 p.157-158
もちろん議論としてはおかしいが……自分の正体って何?
律はこれに対して明確な答えを出していないが、だったら「答えは無かった」と考える方が自然だと私は思う。
人はその場にいる人間の頭数を数えるとき、「数えている」自分は計算に入れない。でなければ「数えられている」自分とのダブルカウントになってしまうからだ。[9]
名前・肩書・容姿・声望……といった、他人から与えられたものを全部取り除くと、 象徴界の上にはマジで何も残らない。
主体は語られた瞬間に客体になって消えてしまう。
主体を表すSの上に斜線が引いてあるのはそういうことだ。
じゃあ主体はどこにあるのか。我々はそれを現実界に置いてきたらしい。
自分の正体を発見したかったら現実界に戻らないといけないのだが、どうするの。意味もイメージも届かない世界だぞ。
象徴界は現実界と分離して構成されるが、この二つの世界は完全に切り離されているわけではない。象徴界には現実界の残した痕跡が見られる。トラウマ(心的外傷)と呼ばれるものはその一つである。また、ファルスのシニフィアン(Ф)は自体的に存在し、他のものに結びつかないシニフィアンとして現実界と象徴界の接点を示す。〈他者〉の場における空はラカンが対象aと呼んでいるものであるが、これも現実界との接点を表している。主体はこの対象aにおいて真の自らの存在を見出すのである。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle 版. 位置No.3377
というわけで、自分の正体を見つけるには、
- トラウマ
- Φ [10]
- 対象a
のどれかを通らないといけないようだ。よくわからないが、焦らずストーリーを追っていこう。
罪悪感はどこから来たのか
律は結局神室さんの要請に従って悪いことをしてしまったのだが、そのまま家に帰ってフテ寝でもしてしまえば、話はそこで終わっていただろう。ところがそうはならなかった。[11]罪悪感が彼の超能力を目覚めさせてしまったのだ。
罪悪感はどこから来たのか?単に社会通念上の悪とか、刑法上の罪に触れることからではないのは59話・裏サンおまけ漫画7話からお察しである。[12]
ラカンはこう言う──「われわれの唯一の罪、それは自らの欲望の上で譲ったことである」(セミネール第七巻、下巻二三四頁)。つまり、欲望の道を捨てると必ず罪悪感をもつようになるのである。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle 版. 位置No.3097
学校に平等をもたらすのが当初の律の(そして生徒会の)目的だったのだが、それを裏切った神室さんを律は許して、結果、抵抗できないような一方的な手段で不良たちを弾圧することに手を貸してしまう。そういうのが「欲望の上で譲る」ということなのだろう。
欲動はその周りを巡る
(S̸⋄D)
超能力を得た律は兄に近づきたい[13]と思って、悪霊に身体を貸し、兄の名を借りたまま、その力を伸ばそうとする。
このあたりから律の言動は自他かまわず破壊的・破滅的になってくる。フロイトのいうところの死の欲動(デストルドー)だろう。
死の欲動とは何か。主体が本来の場所である無に戻りたがっていて、「される」を拒むことで自分で在ろうとしているらしい。[14]
「食事を拒む」のが典型らしいが、大掃除編の律も2回ほど与えられた食事を拒んでいる[15]。
Che vuoi ?
それと前後して、律は色んな他人に対して問い[16]を繰り返し(+問い返され)ながら欲望を変化させていく。
自分を利用しようとしているのではないか?本当の目的はなにか?なぜ近所をウロついているのか?
大掃除編の律はほぼずっと左進行だが、こうした問いの度に右向きで止まる。
マンガワンのページ送りは右から左なので、左進行が「順風」になる。つまり、進むべき場所に向かっていることは向かっている。
しかし要請と欲求を埋めるチャレンジには失敗し、答えに着きはせずに何かの周りを巡っているようである。
与えられない答え
29話で「発端」であるモブくんの方が画面右からやってきて左進行の動きが止まる。
律はここで心情を吐露して兄弟喧嘩を望むわけだが、ここはモブくんが半分嘘だと言っているのだから話半分に聞いておこう。
とにかくモブくんは律が望んでも本気でぶつかる機会を与えてくれないばかりか、謝罪することすら奪って主人公権を取り返してしまう[17]。
この兄ペコで怖くなったのはどうやら私だけではないらしく、マンガワンのコメ欄でも「怖い」という声が散見された。
モブくんは正しいことをしているはずなのになんで怖いのか。それは(さっきまで視点だった)律からみれば、主体の欠如を思い知らされることだからではないだろうか。
第七支部編~「爪」編
さてここで律は突然「爪」に攫われてしまう。律は「爪」の倫理を押しつけられることを拒み、それなら死を覚悟で脱出しようと言う。つまり、引き続き死の欲動をドライブ中である。[18]
どうやったら止まるの。
息ができる場所
(S̸⋄a)
「爪」の第七支部に乗り込んで律と再会したモブくんは、律を責めるでもなく無事を喜ぶ。しかし律が泣いてしまうのはここではなく、テルに向けられた次の台詞の後である。[19]
「何でも工夫して解決できるんだよ。」「力に頼らなくたって。」(中略)
「尊敬だよ。」「ホントに尊敬してる。」
ONE 『モブサイコ100(6)』 (小学館, 2014) Kobo版 p.8
モブくんはこのとき何をしたのか。
“L’amour, c’est donner ce qu’on n’a pas à quelqu’un qui n’en veut pas.” (Jacques Lacan)(
愛とは、あなたが持っていないものをそれを望まない人に与えることである)とラカンは言った。
「『力』に頼らざるを得ない」というのはモブくんが自認している「欠点」である(モブくんはそれを克服するために日々筋トレをがんばっている)。モブくんはその欠けている部分に律を置いてあげたのである。
欠けているところは空いているところ、〈他者〉で埋まっていないところだから、そこでなら主体は息ができる。わざわざ「無」に向かわなくてもいいわけだ。
このあとの律は
「兄さん達を巻き込んだ僕が悪いんだ。」
ONE 『モブサイコ100(6)』 (小学館, 2014) Kobo版 p.27
と、無責から自責にシフトしている。「つながり」の上にある自分を取り戻したようだ。
鏡像
律のワガママともいえる死の欲動は結果的に覚ラボの面子を救った。
自分の行為は他人に反映されるし、逆も然り。これはイメージの力によるものだ。
(引力の反対の力をイメージ!)
ONE 『モブサイコ100(6)』 (小学館, 2014) Kobo版 p.125
とかいう謎の理論で鈴木将がブラックホール(≒無)を破ることができたのは、こうした想像界の力を暗示しているのではないだろうか。[20]
m←i(a)
鈴木父子に対する影山兄弟の解釈は、
「キミの境遇を他人事と思えなかったからだ。」
ONE 『モブサイコ100(11)』 (小学館, 2015) Kobo版 p.79
とか、
「彼は父親のアンタの暴走に悩んでいたんだ。 僕にはわかる…」
「僕の弟も… 僕に怯えていたから。」
ONE 『モブサイコ100(12)』 (小学館, 2016) Kobo版 p.51
とか、自分の家庭事情をよそ様に投影しているわけで、なんだか鏡像的である。[21]
「主人公は主体的に行動するもの」というテーゼと「巻き込まれ型主人公」が両立するのは、他人の苦難を自分事としてとらえるイメージの力があるからだ。
律は鈴木将の代わりに島崎との戦いを引き受け、「楽しく生きたい」、そしてそれを譲らないと言う。「楽しく生きたい」というのも唐突なタームだが、概ね大掃除編の逆とみればよいのではないだろうか。もう欲望の上で譲ることはないだろう。
100話
ラカンの「欲望のグラフ」のなかで、主体Sが斜線を引かれていない箇所が一か所だけある。
S(Ⱥ)
Sの代わりにAが斜線を引かれているが、これは「完全ではない〈他者〉(=自分を表す言葉を与えてくれる〈他者〉はいないこと)を認める」ということになる。
ここが精神分析のゴールらしいが、言うほど簡単じゃない。
「意味を与えられる」ことの方は捨てないといけないからだ。
「する」ことの無力、それでも主体であることを選ぶ
100話の律は例の事故のトラウマを乗り越えて???%を兄だと認める。
律は「相談に乗る」ことで差を埋めようとしてきたが(それは律自身が相談に乗ってほしいという要請でもあった)、兄の「大丈夫」の圧に屈してずっと譲ってきたわけである。
???%と律の力の差は歴然過ぎて抵抗にはまるで意味がないということが示される。
ここで律は、「自分が傷ついて手加減されること」と、「意味はなくても抵抗すること」の間で選択を迫られる。
後者、つまり「する」方を選んだとき、律は自分の欲望の正体を知る。言葉にできないもののために悩んでいる兄に、それでも何かしてあげたかったのである。
100%とは、「自分の正体」に答えが見つかったということなのかもしれない。
私はここで泣いてしまうわけだが、こうやって分析してもこの話は全然輝きを失わない。
優れた物語とはこういうものだ。ONE先生ありがとう。
サントーム
ところで100話で律と対峙したあとではじめて、???%くんはモブくんと「対話」してくれるようになるが、何が起きたのだろうか。
S1
???%はモブくんにとっての何を象徴するのか?おそらく、一者とかS1とかサントームとか呼ばれるものだと思われる。
なぜなら一者とは人間が言語と遭遇したときに残された痕跡であり、それはトラウマとして残り、反復現象の基になるからである。ラカンはそれをS1と記す。S1と記すのはそれが最初のシニフィアンであって単独で実在(existence)するシニフィアンだということを表している。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle 版. 位置No.4570
象徴界は意味とつながりの世界だから、つながりを持たないものは基本的には無意味である。 たとえば、「空」だけ書いてあってもemptyか、skyか、airか何も特定できないが、「空は青い」というつながりがあってはじめて意味を特定できる。
ところが現実には、人も言葉も、誰かとつながりを持たずとも存在できる固有の部分があり、それがサントームである。
サントームは現実界にあって、トラウマの原因になる。
相互再帰
ラカン派でなくてもトラウマの治療は「言語化」が基本であるらしい。
律の対象aが「超能力」なのか「兄がまだ感情を表現していたころの体験」なのか断言できないが、とにかく対象aとは欲望の原因のことだ[22]。
上に書いたように、対象aは象徴界と現実界の接点なので、律は対象aの道をたどって、???%くんを現実界から象徴界まで引っ張り出すことに成功したのだと思われる[23]。
本気でぶつかり合える弟になることを宣言した。(ONE 『モブサイコ100 (16)』 (小学館, 2018)。 Kobo版 p.146)[24]
律は僕の弟だよ。
律だって僕を兄だと言ってた。(同 p.159)という定義の上でモブくんとアイデンティティを争う。
つまり、???%くんは単独で象徴界に存在する可能性を律によって得た(直接定義されたわけではないのがポイント)ので、トラウマの状態をやめて対話してくれるようになったのではないだろうか。
ただし、可能性はまだ可能性だ。
よく定義されるためには「実際に成立すること」のほかにもう一個の条件「経由する中途の表式に依存しないこと」が必要になる。
???%さんはこのために(律以外の)他人とのつながりを否定しようとしているのかもしれないが……[25]
はたして、彼の存在証明のために「つながり」の否定まで必要だろうか?
つづく。
この記事に出てきた本
- ONE 『モブサイコ100(3)』 (小学館, 2013)
- ONE 『モブサイコ100(4)』 (小学館, 2013)
- ONE 『モブサイコ100(6)』 (小学館, 2014)
- ONE 『モブサイコ100(11)』 (小学館, 2015)
- ONE 『モブサイコ100(12)』 (小学館, 2016)
- ONE 『モブサイコ100 (16)』 (小学館, 2018)
- 向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016)
- ジャック・ラカン 転移(上)』 (ジャック=アラン・ミレール編、岩波書店, 2015)
- ロバート・マッキー 『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』 (フィルムアート社, 2018)
参考リンク
ラカンの「欲望のグラフ」については下のようなちゃんとした説明を読んだ方がいいです。
ラカン派 精神分析家 小笠原晋也のブログ: フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (10)
英語で1時間あるけどたぶん一番わかりやすい説明。(1時間で理解できればかなり時短だと思う)

脚注
- 98話、竹中に対して自分の心の声がそう言っているのかと驚いているのは、自分の心の声が聞こえていない証拠である[↩]
- ラカン「的」というのは、私ごときがいきなり『エクリ』や『セミネール』を読めるわけがないので、ほぼ入門書しか読んでいないから。[↩]
- こんなブログじゃなくてちゃんとした解説書で読んだ方がいいと思うけど。[↩]
- たとえば今こうやって書いているブログなんかは、私が書いて、あなたが読むことで、私とあなたは繋がっている。[↩]
- 没年を載せた通り著作権が切れてないので引用したいけど、なぜ『エクリ』原語版の電子書籍が見当たらないんですか……?[↩]
- これはPFスタディというテストで測ることができる。ちなみに私はバリバリの無責傾向が出て医者に感情鈍麻(アパシー)ではないかと言われた。[↩]
- 本人も言動が食い違っているが[↩]
- 対人論証なので実は詭弁[↩]
- 人は極限状態だと数えている方の自分をうっかりカウントしてしまうことがあるらしくて、「何回数えても一人多い」系の怪談はこれではないかと思う[↩]
- Φについては理解が追いついてないが考察はしたので一応。およそ聳え立つもの、先の膨らんだものはφの暗喩とみる余地があるが、大掃除編に登場するそれら(分解されたリコーダー、捩れたスプーン、サボテン、頭を抱える鬼瓦やテル)が概ね「傷ついている」のは、-φの暗喩だと思われる。まともなのは、
傀儡が壊れた
(ONE 『モブサイコ100(4)』 (小学館, 2013) Kobo版 p.66)ときの電柱くらいだが、要するに塩中の秩序を統べる実権を掌握した時なので、Φを得たいということを表しているのかもしれない。[↩] - たぶん、彼も「まだ答えを探して」いたのだろう[↩]
- あれはあれで大掃除編の結果かもしれないが。[↩]
- それは到達できないことを示唆する[↩]
- それを喪失と呼ぶなら、確かに喪失は主体性つまり自由である。freedom よりlibertyのほうが、つよそう(小並感)。[↩]
- 夕食を断るシーン, みかん牛乳を断るシーン。ところで「ミックスジュース」ではなく「牛乳」と書かれ、かつ紙パックではなく丸いペットボトルなのは、母乳=「与えられる食物」の象徴ではないだろうか(65話及びそれ以降に登場する白猫、69話も参照)[↩]
- Che vuoi?を英語でいうとWhat do you want? になる。1期OPの歌詞に出てくるが、多分関係ないだろう[↩]
- 30話:パーセンテージ表記が復活するのがそのサインと考えられる[↩]
- 悪を敵にして、快を目的にしなくなったから「良い子」に戻ったように見えるかもしれないが……[↩]
- もっとも、テルくんがこの答えの実体を受け取るのは島崎戦までお預けになる[↩]
- ほんとぉ?[↩]
- もちろんイメージがすべて正しくはないのは鈴木統一郎も指摘しているが、結局「愛する人」のイメージにたどり着くので、「爪」編というのは結果的にイメージの勝利だといえる。[↩]
- 対象aというよりアガルマなんじゃないか、と『ジャック・ラカン 転移(上)』 (ジャック=アラン・ミレール編、岩波書店, 2015)を見てちょっと思ったが、本の内容が難しすぎてわからない(泣)。ただ、アガルマとは元々ギリシャ語で、ある種の秘宝を指しており、秘められたものであることは確かだ。鈴木将の言っていた「潜在能力」とはもしかしたらアガルマのことだったのではないか?とは思う。[↩]
- そもそも「茂夫」と「律」というシニフィアン自体、神道の一霊四魂説におけるサキミタマ(増殖・繁茂させる力)とクシミタマ(増殖しすぎたものを整理・規律する力)のような対応関係にある[↩]
- 律が自分のことを「何でも相談できる」と言ったから???%さんは相談可能な状態になったのかもしれない[↩]
- ???%くんが「誰も信じてない」と言ったとき、ツボミちゃんを除外していないのが不穏ポイントだが……もしかしたら、「ツボミちゃんに拒否された」という中途表式を否定しようとしていたのかもしれない[↩]



