貴種流離譚+末子成功譚の類型を考える(『山椒大夫』から)

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思うところがあってこの2022年7月にこの記事を起稿している。

貴種流離譚+末子成功譚という話の類型について。
「生まれが8割」みたいな、さじ加減を間違えればメアリー・スーになりかねないこの類型、どうして人々に受け入れられているのか。

貴種流離譚とは

昔話の類型のひとつに貴種流離譚というのがある。
貴人が漂泊(低い地位、さげすまれる地位になる)しながら試練を克服して、地位を得るという話の類型だ。
かく言う私も源融の末裔(とりあえず家伝ではそういうことになっている)だが、その源融をモデルにしたとされる光源氏だって帝の子でありながらいちど明石に流されている。これも貴種流離譚のひとつ。

なぜ貴種流離譚が広く受け入れられているのか

ところでどうして貴種流離譚なんかが人々の心に受け入れられているのか。「上級国民」は嫌われ者ではなかったのか。
折口信夫は貴種流離譚の源流を日本人の神との関係に求めるようだが、貴種流離譚はべつだん日本にだけ認められるわけではないし、現代にだって通用する。

以前の記事で触れたけれども、物語は幻想ファンタズムである。

幻想には必ず一つの矛盾した要素が見られ、そこに主体が位置される。これは一つの同一化ともいえよう。
向井雅明 『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』 (筑摩書房, 2016) Kindle版 位置No.3739

とラカンは言った。で、ここに対象aがあるわけだ。
貴種流離譚における矛盾した要素とはなんだろう。

「貴種」には政治力が付随する。
政治と宗教が一致していた時代には貴種=神だったし、政権が統一されたあとは皇統だったし、地方分権が進むと貴族だの豪族だのということになったのだろう。

貴種流離譚における矛盾ポイントとは、「下々の立場がわかる統治者ルーラー」という矛盾した存在ではないだろうか。
すなわち、貴種流離譚では、「不平等」や「差別」がキーワードになっているといっていい。

人の世から不平等がなくなることは原理的にはあり得ないと考えられるので、たぶん貴種流離譚もそうそう絶滅することはないだろう。

貴種流離譚に末子成功譚がくっつくとどうなるのか

末子成功譚というのも物語の類型のひとつで、文字通りきょうだいの末っ子が成功する物語だ。
これも人類史上に広くみられる類型であり、起源については

  1. 長子相続により不利益を受ける末子を慰めるため
  2. より古くは末子相続が原則だったため、その正当性を証明するため

という矛盾する説があるが、はっきりしたところは分かっていない。

起源が分からないなりにその力は強力だ。
たとえば西洋では「見るなのタブー」と末子を戦わせると末子の方が勝つ。
フィッチャーの鳥

で、「落ちて戻る」貴種流離譚に「最も弱いものが成功する」末子成功譚の力が合わさるとどうなるか。

「戻り」の破壊力が半端ないことになる。そう、破壊力だ。

貴種流離譚+末子成功譚の基本の流れ

貴種流離譚+末子成功譚の図示。戻りの力の方が大きくなる

もともと身分の高くないグレーテルでさえ魔女を殺すように、
あるいは、低い身分に流離しない姫君の姑が煮殺されるように、
高い身分から落ちた末子は戻ってくるときに既存の秩序を破壊しうる。

その好例が『山椒大夫』の厨子王だといえるだろう。

中世の山椒大夫

『山椒大夫』といえば森鴎外だが、 なお、説教節の山椒大夫にはいくつかのバリエーションがあるらしいが、ここでは 『説経節』 (荒木繁=山本吉左右, 平凡社, 1973)を参照する。

あらすじを図示するとこんな感じ。

説教節の山椒大夫のあらすじの図示

説教節の山椒大夫のあらすじの図示

説教節というのは仏の力の偉大さを示すようなお話だからか、厨子王は様々な神仏に助けられて本来の身分を取り戻す。

「さんしょう」とは「散所」を意味し、要するに被差別階級の人たちが働く場所だという。
説教節の山椒大夫は、つまり、貴種である厨子王が被差別階級の立場を経験し、最終的にはその差別的扱いを生み出している山椒大夫の秩序を破壊する物語である。

差別される側の者の立場がわかる統治者ルーラー」という矛盾ポイントを持つ話の典型みたいな感じ。

なので説教節の山椒大夫は、母を治すシーンより、その後の出世パート(統治者としてのし上がっていくところ)に尺が割かれている。

これだけ出世するラストでも厨子王がメアリー・スーにならないのは、

  • 被差別階級と同じ(あるいはそれ以上の)苦しみを受けるから
  • 被差別階級を虐げる山椒大夫にしっかりと復讐してくれるから

つまり、被差別階級の人々の怒りを代弁しているからだといえよう。

近代の山椒大夫

森鴎外の『山椒大夫』は、説教節の山椒大夫に比べると以下の大きな違いがある。

  • 安寿が拷問を受けたり山椒大夫が処刑されるようなグロテスクなシーンがカットされている
  • 安寿の死因が自死になっている
  • 厨子王を助けてくれる神仏が、安寿から厨子王に譲渡された「守り本尊」(地蔵みたいなもの)に集約されている

まず、グロシーンがカットされているのはなぜか。
明治時代になると四民平等のもと被差別階級も撤廃された。
差別がなくなったわけではないが、少なくとも、被差別階級に苦しみを与える者にそこまで苛烈な復讐をする必要もなくなったのだ。

そうすると元ネタに比べると根本的部分が欠けているように見えるが、それでも森鴎外の『山椒大夫』は名作として成立している。

鴎外は一体何をしたのか。

対象aをすり替えたのだ。

すなわち鴎外は、物語の矛盾ポイントを「家族の再構築のために犠牲になる家族」に持ってきた[1]

その矛盾ポイントを作っているのが安寿の自死だ。
(安寿は何をそんなに思い詰めているのか、一人で思い詰めないでほしい)、
と現代の我々は寂しく思うかもしれないが、その寂しさ、そのポッカリ空いた孔に奇跡は宿る。

それを可能にしているのが、安寿が厨子王に渡す守り本尊だ。

安寿が厨子王を逃がそうとして守り本尊を渡すとき、厨子王は焼印を受ける夢のことを思い出して山椒大夫の追っ手を恐れるのだが、

坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます
『山椒大夫』森鴎外 (https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_23257.html) 2022年8月7日閲覧

と安寿は言う。仏や人を信じる心を継げと弟に言っているわけである。

この信心を継いで守り本尊には魂が宿る。守り本尊が焼印を肩代わりしたときには夢オチだったものが、真に厨子王の心の支えになるのだ。
守り本尊は厨子王の血統を証明してくれるレガリアであると同時に、厨子王の精神にとっては姉の代理として機能する。
説教節では数々の神仏の加護だったものが、鴎外版では守り本尊ひとつに集約されているから、このポイントが明瞭になる。

テーマが近代化したからといって貴種流離譚の構造は変わっていない。
厨子王はちゃんと「家族をバラバラにするような秩序[2]を破壊する。
つまり、山椒大夫に命じて使用人に給料を払わせるようにして、奴隷制度を破壊する。
そうすることで山椒大夫の一族は一時的に損をするものの、最終的には逆に繁栄する。
厨子王は自分と同じ境遇だった奴隷を開放すれば必要十分で、説教節のような過酷な制裁は必要ないわけだ。「家族」のスケールが大きくなったともいえる。[3]

テーマが「家族の再構築」にすり替わっているので、ラストも出世ではなく母親との再会になっている。

鴎外の山椒大夫のあらすじの図示

鴎外の山椒大夫のあらすじの図示。

現代はどうなのか

上の文では物語の矛盾ポイントを赤主人公の正統性を証明するものを黄色[4]破壊される既存秩序を青で塗ってみた。テーマが変わってもこの構造に変わりはない。

で、ここまでが近代の話。
現代になると、「貴種流離譚+末子成功譚」にはちょっとまた別の問題が生じてくる。

つづくかも

参考になりそうな書籍

脚注

  1. 『舞姫』をを読んだ後だと若干文句を言いたくなりつつも納得できるところだ[]
  2. 山椒大夫のやり方に身内もついていけない様子が太郎の家出によって描かれている[]
  3. ここに鴎外の優しさを感じて私は好きなんだが……[]
  4. 正当性と言い換えていいのかどうか分からないが、言い換えた場合にはメンターということにもなるのだろう[]
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