インプットが大きすぎて噛み砕けないときに試すアウトプット方法

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インプットが大きすぎてアウトプットできないケース

インプットよりアウトプットが大事、とはよく聞きます。
いくら知識を吸収しても、使わなければ忘れていくだけなので理屈はわかります。

されど、言うは易くのなんとやら。

  • インプットしたものが難解すぎて、何を言っても誤った解釈にしかならないような気がする
  • インプットしたものが頭の中で渦巻きすぎて、言葉にできない
  • インプットが多すぎて頭の中で目詰まりを起こしている

というような状況になりがちです。(というか、私はそうなりがちです)

インプットが大きすぎるときに、我々はそれを消化不良のまま腐らせるしかないのか?
無駄とは言わないまでも、それはやはり「もの言わぬは腹ふくるるわざ」
アウトプットしてエネルギーを形に変えた方が健康的なように思えます。

本を読んだ後って頭にエネルギーが貯まってなんだか苦しい感じがする

インプットによって貯まったエネルギーをアウトプットに向ける方法にずっと悩んでいたのですが、
最近糸口が見えてきたので、それについて書くことにします。

難しい本を読んでしまってアウトプットに困る

最近ハイデガー入門書を読んでいた

このところラカンばっかり読んでいたので、そろそろラカンから帰らなきゃならん、と随分前に思ったわけですよ。

としたらデリダか、ドゥルーズ=ガタリ辺りから帰るんだろうなと見当はつけてみたものの、
読んでみたところ、いずれにせよハイデガーを通過しなければならないと悟りました。

20世紀の哲学ってだいたいそんな感じだよね。

ところが、ハイデガーは入門書からしてまず難解
読むのに時間がかかるのに、エネルギーはメチャメチャあるので、読んでると非常に苦しいわけです。

(補足)あとから見たのですが、NHKの「100分de名著」が分かりやすかったです。

そもそも筆者ですらまとめ切れなかったものを読んでいる

というかハイデガー自身も、書籍の形でアウトプットするのが苦手な人だったようです。

以上で見てきたように『存在と時間』の印刷は、原稿すべてが一括して印刷所に送られたわけではなく、清書した部分から順次、印刷所に送付され、そちらに原稿が回っているあいだに次の部分の清書と戻ってきたゲラの校正を続けるといったずいぶん慌ただしいやり方で行われている。 轟孝夫 『ハイデガー『存在と時間』入門』 (講談社, 2017) kindle版 p.86-87

この印刷中にハイデガーが本文を大幅に書き換えるなどして、なんとか『存在と時間』の上巻として出版されたが、残り半分の下巻はとうとう出版されなかった。

なのでそもそも『存在と時間』は「アウトプットできなかった部分」のエネルギーが大きすぎる本なのです。
読んだ私がなかなかアウトプットできないのも、そりゃそうかぁという感じ。

解決の糸口

ひとつの想起

ところで、ハイデガーについて読んでいると、ある曲が脳内で鳴り止まない。
しょうがないので両手に任せてUTAUでカバーを作りました
ちなみにJASRAC管理曲なので「許諾のある音源を使う」などの要件を満たせばYoutubeにカバー曲をアップすることが可能です[1]

で、これは作業中に分かってきたことですが、
『ヘミソフィア』の歌詞と、ハイデガーのいう現存在ダーザインの在り方が、私には重なって見えているようです。
自分の解釈がちょっと分かったので、「腹ふくるる」感じがちょっと落ち着きました。[2]

その本を読んだということは元々自分との「縁」があったんだろう

よくよく考えてみれば、人はおそらく自分にまったく関係のない本は読みません。
(読んでも理解できないので読み進めないと思う。)
何らか日常のなかで興味や問題があって、それをなんとかするために読むというのが一般的でしょう。
あるいは、「友達が貸してくれたから読む」とか「とにかく日本語で書いてあるから読む」とか。

つまり、人が本を読む前には既に、本(の内容)と人の間に何らかの関係性、縁が存在するわけです
本を読むとは、その関係性を更新することではないでしょうか?

自分が本から連想したものにありったけ当たってみる

というわけで、本の内容それ自体を噛み砕くのが難しくても、
本を読んでいて何かを連想したなら、その本が「自分が元々持っていた縁」を活性化させてくれる可能性が高いと思います。

心に引っかかった経験、
「いいな」と思った曲、
思い浮かべる人。

インプットが大きすぎて行き詰ってしまったときは、連想したものの方にエネルギーを向けてみるのも一つの有効なアプローチかもしれません。

気になる言葉をノートに転記する、線を引くだけでも立派なアウトプット

また、無心で「なぞる」行為には、縁や「つながり」を掘り起こす効果があるのではないかと感じました[3]
昔の人が写経をし、『論語』を音読して学んだように。

本への書き込み、
傍線を引くこと、
気になった個所を(できれば手書きで)自分のノートに転記すること
いずれもスタンダードな読書術ですが、案外侮れないのかも。

まとめ

インプットが大きすぎてうまく噛み砕けないときは、以下の方法でアウトプットを試みようと思います。

・とにかく連想したものに当たってみる
・とにかく無心で手を動かす

読んですぐ噛み砕けなくても、ちょっとずつ読書エネルギーを活用できている気はする……!

追伸:アウトプットに慣れてきたので、最近、丁寧語でブログができるようになりました(イェイ)
でもまだ少し不慣れな感じがする。

脚注

  1. 本当はもっと要件もあり、著作権法上の線引きも難しいので機会があればまとめたい[]
  2. 「私はこれを想起しました」「私はこう解釈しました」自体は事実だから、解釈違いは恐れないでおこう。[]
  3. 邪魔になっている意識を一旦置いておけるからだろうか?[]
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